雨が降っても傘をささない。

薬と病気とアクアリウムとなんか色々備忘録。

ベタ2:基本スペック

ベタ。

 

  • 性格。

闘魚と呼ばれるほど、気性の荒い魚。

鏡に映った己とすら闘おうとするほど。

己と闘わせることをフレアリングといって、ヒレを思い切り開いてヒラヒラ揺れる。
f:id:procaterol:20190904173838j:image

基本的に1つの水槽に1匹にしないとどちらかがボロボロにされることもあるとか。

なので混泳はしない方がよい。

 

 

 

  • 環境

タイの水溜まりとかに元々すんでいたので、水流とかほんと苦手。

泳ぐのあんまり得意じゃない。

敵がいないと酷くのんびりで、運動不足になりがち。すぐ便秘しちゃう。

水溜まりで生きてたくらいだから、瓶レベルの水量でも飼えると言われている。

でも瓶で飼うのはすごく高度な管理が要求される。

 

水面から酸素を取り入れられるラビリンス器官を持っているので、エアーポンプが要らない。

反面水面に息を吸いにいく特性上、あんまり水深が深いのは得意じゃない。

 

環境が気にくわないとジャンプして隣の水溜まりに移ろうとする習性があるので、水槽の蓋必須。

なにもないときにやたらジャンプしてたら、たぶん環境めっちゃ悪い。

 

 

  • 寿命

1年~2年半が平均だそう。

この辺も個体差があるし、お迎えしたときに何歳かわからないから厳密に統計が取れないのでわからない。

でも稀に5年いきる子もいるんだとか。

 

 

思い出したらどんどん追記するとして。

次は勧められたあれこれと、落ち着いたときのあれこれの違いなど。

ベタ1:はじめてベタを買う

仕事を辞めるまであとすこしの、2017年冬。

夫の実家で生息している黒猫に貢ぐために訪れたペットショップで、麗しいヒレをヒラヒラさせて泳ぐ、優美な魚に一目惚れした。

ベタと言う名のその魚は、瓶に一匹づつ入れられ、ショウウィンドウの中のヒラヒラのドレスみたいに、ずらりと並んでいた。

よくもまぁそこそこ狭いその瓶の中で、酸素のぶくぶくするあれもなく元気にしているなぁと感動して。
ついついそのまま、深い青色の「トラディショナル・ベタ」をお迎えして、浮き足立ちながら帰宅した。


ところで私は、沢山並んだベタ達の中から、「ヒレの先が爪のようになっている」青いベタを選んだ。
個性的だな、と思って。


f:id:procaterol:20190903230522j:plain


それが、ベタの体調不良の証だということは知らなかった。

ベタは少し何かあるとヒレに穴が開いたり、癒着して尖ったりする。
結構繊細なやつで、地震にビックリしてヒレに穴が開くとか、水の温度の上がり下がりが激しすぎてヒレがボロっと裂けるとか、ままあるらしい。

そんなこと全く気づかなかった私によって我が家にお迎えされた、たぶんペットショップにいたときからちょっと体調が悪かった彼。

わたしも暫くはペットショップのお兄さん直伝のお世話をしていたが、
あれなんかおかしくね?と気づき、いろいろ情報収集を始めた。

彼の体調とにらめっこしながら試行錯誤は続き、結局落ち着いた頃には管理方法が随分変わっていた。
ペットショップのお兄さんの名誉のために記しておくが、お兄さんのいっていたことが間違っていた訳じゃない。
ただ、お兄さんの管理方法は実はとっても上級者向けだったのと、うちの子になったベタにはあんまり合わない部分もあったのだと思う。
どうやらベタには結構個体差もあるらしい。
この辺りの管理の細かい話は、煩雑なので先に個別の記事を立てようと思う。




とにかく彼は、美しかった。
あまりにも綺麗で、私は初め、かなり大袈裟な名前をつけた。
しかしどんなに私が綺麗な名前をつけても、私の夫は彼のことを頑なに「べたっちょ」と呼んだ。

結局私は根負けして、彼はべたっちょになった。


べたっちょは、非常になつっこい魚だった。
私が掃除機をかけたり、家事で近くを通ると、ゆらゆら泳いで見学に来た。
水面に向けて指差すと、指めがけて全力でジャンプする。
水面から指を動かすと楽しげについてくる。
横のガラス面に指を置くと、そうっと触れに来てから、不思議そうにすぃっと後ずさる。
隠れられるようにと気を使って水槽に壺をいれたのに、壺の上で寝出す。


こうやって羅列してみると、確かに「べたっちょ」なんてコミカルな名前がしっくり来るから不思議。
はじめて見たときにはあれほど優美な魚だと思ったのに。



次の記事は、ベタの生態について記録する。

仕事をやめてから回復するまで:4

落ち着いた今、今後の己のため、記録として、
自分の事をぜーんぶ棚にあげて、辛かったことを羅列してみようと思う。

重複する内容もあるし……社会人あるあるになりそうだけれども。


PHSが辛かった。
1番辛かったやつだと思う。
社内から来る電話だけなら、
休みの日は電源切っちゃえばよかった。
でも顧客からのクレームや問い合わせの窓口にもなっていたから、いつ鳴るかわからなくて辛かった。
普通は顧客からの窓口は、社員全員が輪番で持つ。
管理職用のPHSを契約するのをケチった会社が、
兼用にして1人に押し付けたから辛かったのだと思う。
2年間ずーっと、これに苦しめられた。
喉に魚の小骨がずーっと刺さってる的な辛さ。

ちなみに今は改善されている。
最初から分けてくれ弊社よ。



②前例がなかったから辛かった。
弊社の中では、エリアマネージャーの補佐官は比較的できたばかりの役職だった。
業務内容が定まっていなくて、各エリアマネージャーによってやることは全然違ったし、
本部から求められる業務内容とエリアマネージャーから求められる業務内容の間にすら解離があった。
どっちが正しいの?ってことがとても多かった。

さらに、現場から求められることも前者たちと全然違っていて、
前例がないから参考にすることもできず、ずっと、ふわふわした感じで仕事をしていた。



③給料面のあれこれ。
現場と本部とエリアマネージャー、求める業務の食い違いが大きかった結果、評価に解離が出た。
現場と本部からは非常に誉められ、喜ばれたけれど、エリアマネージャーからは普通の評価。

頑張った、数字も一応そこそこ出た。
でも全然給料に反映されなかった。
当たり前だ、直属の上司からの評価が「普通」なんだから。

弊社はちょっと変わっていて、役職手当てがない。
社内等級と評価で給料が決まるのだけど、等級の寄与率が高い。
社内等級試験は2年に1回しか受けられない。
だから、
「長く働いている平社員」とか、
「最初から等級の高い中途の平社員」とかの方が、
私よりも給料が高かった。

トラブルを起こしまくって私の休日を潰しまくる人の方が、私よりもずっと給料高いのかー
と思うと、メンタルが鰹節のようにガリガリ削られ風に吹き飛ばされて散り散りになった。

これはいまだに改善していないらしい。
弊社の大きな問題であると思う。



こうやって羅列してみると、いまだにすこし心臓が揺れるし胃はぐるってなるけど、それだけだ。

終わったとこだなぁと気付く。
私は逃げたんだなぁと気付いた。

こんな簡単なことに気づくまでに、1年もかかってしまった。
磨耗した脳みそは、すぐにはもとに戻らないんだなと実感した。


こうやって文章に起こしてみて、ひどく満足した。
これから先は、前向きなことをたくさん考えていこうと思う。



ブログというものの使い方はいろいろあると思うけれど、とりあえず、記録することを目指してこれからもちょこちょこ書いていこうと思うのであります。

仕事をやめてから回復するまで:3

2017年12月。最後の出勤が終わった。


まず、それまで通勤で乗っていた原付を売った。
左目の視野も心配だし、やつも誰かに乗り回してもらう方が幸せだろうと思って。
2年しか乗っていなかったけれど、確か6000キロを越えていたと思う。
普通どれくらい乗るものかはちょっとわからないけども。

自分としては、店舗巡回を頑張った証のようで、感慨深いものがあった。



PHSも手放した。

ほんとうにほっとした。

お風呂以外で肌身離さず持ち歩いていた、
飲み会でもずっと首から下げていた、
映画館なんて寧ろ行けなかった、
鳴らなくても1時間毎に開いて確認していた、
やつを手放した。

手放した日はちょっと感動してケーキ食べた。



2018年1月、はじめて配属になる店舗の、
パートとして働きだした。

新しい店舗で働きつつ、
そこそこのんびり治療しつつ。

すぐに回復するかと思ったのに、心身に余裕が出てきたのは2019年になってからだ。

持病の治療に思ったより期間がかかったり、
肺炎やったりインフルエンザやったりノロやったり、
コミュニケーション弱者すぎて新しい店舗でなれるのに時間がかかったり、
ものすごく久し振りに厳しい上司が出来てびくびくしたり、
内省が方向を誤りすぎて自分をサンドバッグにする癖が抜けなかったり、

そんなこんなわちゃわちゃしているうちに、1年経っていた。



漸く今落ち着いて、

遊びに行きたいなとか、
旅行してみたいなとか、
もっと勉強したいなとか、
手抜きじゃない料理をしたいなとか、
趣味だった手芸を久し振りにやろうかなとか、
バラエティ番組をみてみようかなとか、
たくさん本がよみたいなとか、

そんな風にすこしづつやり始めている。

物理的に視野は欠損したけれど、
精神的には視野が広がってきていて、
捨てたもんじゃねぇなと思っている。



たまに、私ほんとに府抜けたな、一生懸命働いてる同期や上司に申し訳ないな、とか思うこともあるのだが、
友人に「DVから離脱し始めたばかりの妻みたいだよ」とか言われたので、あんまり思わないように訓練しているところ。

なので次は、一度自分の事をぜーんぶ棚にあげて、
何が辛かったのかを書こうと思う。

仕事をやめてから回復するまで:2

辞めようと決めてから、すぐにエリアマネージャーに報告をした。
この時は「辞める」ことは決めていたけれど、その先のことはまだぐちゃぐちゃしていた。
なのでとりあえず、

「ゆっくり引き継ぎをして、12月末日で退職」

ということにした。

入院がたぶん12月になるだろうと医師に言われていたので、有給消化中に入院しようと思ったから。
ちなみにこの段階で、有給は丸2ヶ月半休めるくらいあった。
業界的に冬からが忙しい。
増員を引っ張ってくる関係で、12月頭くらいまで出勤してほしいと頼まれていた。

なので、暇な夏の間にちょこちょこ有給を消化しつつ、先のことを考えようと計画した。



さて、先のことをどうしよう。

年明け、出来ればすぐに働きたい。

夫のうつは漸く小康状態に入ったところで、薬を飲みながら体調を鑑みながらだけれど、会社には行けていた。
でも私が仕事をしない時間が長いと、きっと夫にとっては悩みの種になるだろう。
彼にまたなにかあったとき、彼が安心して休職に入れる用にする必要がある。

もちろん己の体調にも寄る筈なのだが、この時完全に頭からすっぽぬけていた。
というか軽々しく「まぁいけんだろ」とか思っていた。アホすぎる。



もとの仕事をこなしながら、引き継ぎをしつつ、何故かこのタイミングで頼まれた社内研修の講師やりつつ、病院に通いつつ、夫を病院に通わせつつ、転職活動をする。

無理だった。
ぜんっぜんだめだった。

なので早々に、転職は諦めた。
始めての転職活動だった。
こんなに大変だなんて思ってなかった。



諦めて、会社を変えずに、
「社員をやめてパートタイマーになる」
選択をした。

年収でいうとボーナスがないのでずいぶん下がるけれど、月収でいうとそんなにかわりない。
まぁちょっと下がるけども。


ほんとはたぶん、会社変わらないなら役職降りるだけでよかったんだと思う。
けれどやっぱり社員契約だったら、また違う役職が降ってくるだろうし、私はそれを断れなかったと思う。
ので、まぁ後悔はしていない。


そんなこんなで入院があけて翌年2018年から、かつて自分が担当だったとある店舗の、平パートタイマーとして働きだした。

体力のない私が、仕事をやめてから回復するまでの話。

漸く、漸く色々な整理がついたので。
言葉にして残しておこうと思う。




全国ではないがそこそこ店舗数のある小売業に新卒で入社した私は、入社5年目、2月に結婚した。
3月に、末端管理職から、エリアマネージャーの補佐になった。

その辺から狂い出した。

そもそも補佐になったのは、私が優秀だから、とかそう言うかっこいい理由じゃない。
女性の社会進出が叫ばれ、企業の女性の扱い方が徐々に可視化されてきている世間で。

既婚で、女性で、一応一定の社内等級がある人物を、地区で1人は補佐官にしましょう。

そんな事を当時の関東の責任者だか、私には預かり知らないくらい偉い人が、決めたから。らしい。



そのとき私は、給料が8割に下がる代わりに、土日祝日休み、10時19時まで、という契約で働いていた。
けれど、管理職用のPHSを持たされた。
お店は年中無休。
担当したエリアで、1番早い店は9時から。遅い店は22時まで営業していた。
当たり前だが困ったことがあると、私の勤務時間に関わらず電話はかかってくる。
加えて、顧客からの相談やクレームの電話は、緊急性が高ければ24時間かかってくる。
流石に毎日とは言わないけれど、夜中の2時やら明け方5時に電話が来ることもあった。
休みの日でも、急に出勤しなくてはいけないこともあった。

現場は、人が足りなかった。
今も、だけれど。

巡回の日以外は現場に出なくてはいけなかった。
現場は忙しいから、報告書やらのデスクワークをする時間があまりない。
でも家で、うつになった夫が待っている。あんまり長く残業はできない。
家でデスクワークをするようになった。

あっという間に、仕事とプライベートが曖昧になった。



他にふたりいた同地区の補佐はどちらも5年くらい先輩の男性で、私なんかよりもずっと、能力も経験もある方だった。
「上手に手抜きをすれば?」「報告書なんてもっと適当で良い」とアドバイスしていただいた。

でも、ほんとに私は手抜きが恐ろしく下手だった。
それに地区に溢れる問題を、人間関係の拗れを改善するのに、私は報告書にあげる以外の道が思い付かなかった。

いろんな疑問に答えることは出来た。
けれど、補佐には権限が全然なかった。
人事権がないから泣いている子を助けられない。
制度を変えられないから、根本的な解決はしてあげられない。

問題を吸い上げて、権限を持っている人に改善策を提案することはできるけれど、実行する権限はない。




私が補佐に向いていないことは、もう確実だったと思う。
何度も何度も、もう下ろしてもらおうと考えた。
けれど降りないでくれと現場管理者に言われたり、新卒の子に言われたり前任の先輩に言われたり、

………とか言いつつ結局、自分でなんだかんだと理由をつけて、降りなかった。



あっという間に2年経った。
梅雨頃、自転車に乗っていて、電信柱に衝突した。
そのとき漸く、左目の視野が欠損していることに気がついた。



病院にいって。
入院含め療養が必要ということになった。

その段階で、とりあえず補佐は降りようと思った。

けれどもう少し考えて、もう働き方そのものを、大きく変えてしまおうと決めた。

私が1番大切なのは、家族と己の健康だと再確認する。
けれど私は頼まれたらイヤと言えない典型的なお人好しで、かつ己のキャパシティを把握していないお調子者のアホだから。

ほんとうに大切なものに時間を裂くには、そもそも過剰な仕事を頼まれない契約にするか、会社をやめるしかない。


やめようと決めた、2017年の6月。

「男女平等」にくるしめられる。

よっぱらいの戯れ言なのですが、最近「男女平等」に苦しめられております。

今私のお仕事場では、「男女平等」にするために、「男性と女性を同じように扱うこと」「女性の幹部をなんとしてでも増やそう」「産休から復帰しやすいように制度を整えよう」等色々な取り組みがされてます。

そもそも女性の多い職場ですし、産休や育休の話はいいなぁと思うんですが、問題は前者ふたつのことです。

男女平等って言うのは、

家事能力のない、育児ができない男性に「女性は普通とるから」っていって育児休暇を与えたり、

女性の管理職が少ないからといって、適正のない女性を無理矢理管理職にしてみたり、

男性職員は長時間労働しているからといって、能力ややる気もない女性を長時間労働させてみたり、

そーゆーことじゃないはず。


男性だろうが女性だろうが、やりたい人にやりたいことをやってもらえたり、
適正のある人に適正のあることをやってもらったりするのが、

ほんとーの平等で、理想なわけで。


なんで女性の幹部が少ないかって、「女だからなめられる風土、平等じゃない空気」とかもあるかもしれないけど、
家事とか育児とか体力面とかやりたいやりたくないとか、そういう都合で幹部がやりたくない職業だからって理由もあるはず。

長時間労働しないといけなくなるとか、
残業しないといけない空気出されちゃうとか。

そういう土壌を、仕事の内容を、見直さないままに、
無理矢理仕事押し付けてみたってそりゃぁうまくいかないと思うのだけれど、

どうなんですかね弊社さん。

テレビ見ててついつい言いたくなった。